もうすぐ、卒業だったり卒園だったり、旅立ちの季節です。
今まで、なんども卒業していく子ども達を見てきたけれど、いよいよ今年は自分の番。
実は・・・というわけでもないけれど、取材先の学校の子ども達(お友だち)の写真は山の様にあるけれど、自分の子どもの写真はほとんど撮ったことがない。
昨年ぐらいから、激しい矛盾とともに、授業中も放課後も夏休みも冬休みも、すきなように撮らせて下さっていた関係者の皆さんに感謝の気持ち。
ふだんから、ふだんの写真は貴重だから、のちのちに残して伝えていくためにも、手を加えずストレートに撮らなきゃだめなんだといったり、いわれたりして、撮っていたわけですが、我が家の記録はまったく残っていないに等しいのですから、矛盾を感じないわけがないのです。
なんだか写真を撮ると、意味もなく『悪』みたいな雰囲気を醸し出されてしまうことが、多々ある度に、少々・・・おかしくね?って感じなくもないのですが、ふだんの写真がいかに大切かは、ふだんが無くなってから気がつくものかもしれません。
たまたま、なんどか最後の年とかそういった場面にでくわしてきましたが、やっぱり記録に残そう、貴重な資料はできるだけ損失しないように残そうと動いている人達ばかりでした。
厳密にいうと、日常の普通の時間は、全て、残して伝えていくべきかけがえのない時間であるはずですし、そうでなければならないはずだったりします。
意味のない時間なんてあるわけもないのです。
記録に残すということは、どういう意味があるのか、なんで人は記録しようとするのか?まったく意味はわかりません。
石に文字を刻んでいた頃から記録という意識があったのだと思うので、人の本能なのかもしれません。
ふだんの様子をそのまま撮り続けることで、きっと、その時、周りの人達がどうだったか?どういう気持ちだったのか?
行事だったら、どのような手順で、どのように進められていたか?なんかが記録として残ります。
対象が子どもだったら。
きっと、子どもが育った環境はどういったものだったか?
大人になった時に、地域、周囲の大人達から、どれだけ愛情を受けていたのかを見る事ができると思います。
改善するべき点も、よかったと思う点も、伝えていくことができるというものです。
幸せを感じたり、感謝の気持ちだったり、誇りといったものも持てるかもしれません。
※もちろん、その時にそういった感情が持てるような環境にしておく必要が今を生きている大人達にあったりするわけです
とにかく伝えていかなければいけないことは、たくさんあるのだと思います。
その手段のひとつとして、写真というとても便利な道具があるので、それを使わない手はありません。
だから、カメラがあるなら、撮らなきゃいけない。
そこにカメラがあるから!!
お父さん、お母さんは、カメラがあるなら、記録を意識して、ふつうにぱちっと撮ってあげなければいけないのです。
だから、保育園に送って行く途中に僕も撮ってみました。
あーかわいすぎるっ!!
撮る方も、かわいいなぁーと、朝から幸せな気持ちに。
あと少しでこんな風景も見ることができなくなってしまうので、撮れる時にはちゃんと撮っておこうと思います。