
岐阜新聞朝刊2019.10.27
レクサスが、日本の若き匠たちを支援する匠プロジェクト。
各都道府県から匠が選出されていますが、岐阜県で選ばれた3人の匠を撮影。
2019,10,27岐阜新聞4面に掲載していただきました。
企画のお話をいただいた時に
『絶対ロケがいい!』
という、僕のわがままを受け入れてくださった、岐阜の3人の匠、澤木さん、塩谷さん、今泉さん、
電通、岐阜新聞の担当者さま、関係者の皆さまにこの場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
僕にとって特別な仕事でしたが、
どこかでひとつ歯車が狂っていたら、満足には程遠い結果になっていたと思います。
感謝の気持ちを込めて、どのように撮影が進んだのか記しておこうと思います。
撮影は外に決めた
『おかしい・・・希望通りの場所が見つからない・・・』長良川沿いを重点的にロケハンしていた2日目も、気がつくともうお昼を過ぎようとしていた。
『金華山を背景に』もしくは『匠の工房』で3人の匠を撮影しなければならないと話を聞いた時に、岐阜の象徴である『金華山』『長良川』のロケーションで3人の匠たちを撮影し、岐阜に暮らしている人たちがちらっと見ただけでこれぞ岐阜というイメージをすぐに提案できるはずだった。
自信を持ってロケを提案したけれども、イメージ通りの場所が見つからない。
朝から下見を続けていたけれど、お昼を過ぎる頃には、余裕も自信もなくなり焦りを感じていた。
エピソード
はっきりとした記憶ではないが2週間ほど前、「かなり横長のレイアウトになり背景なども含めたライティングが必要になりそうなので相談したい」 このような電話をいただいた。
電話口にいる十文字(仮名)さんは、現在、広告などを扱う営業局に所属しているが、もともと岐阜新聞社の写真部所属であるから、写真に対してもプロである。
十文字さんがいなかったら撮影の結果は全く違うものになっていた筈なので、まず彼について少し触れておこう。
話は、名鉄が抱える岐阜県内のローカル線(八百津、揖斐、谷汲、竹鼻、美濃町、市内線)の赤字問題が深刻化していた時期に遡る。
僕は、揖斐、谷汲線を中心に撮影をしていたから、鉄道を題材のひとつとして取材していた十文字さんとは、沿線で何度も顔を合わせ一緒に撮影することもあった。
十文字さんは、僕がカメラを構えていると「ひとつ現場を終えて少し時間が空いたので」と、取材の合間をぬって顔を出し、何本か行き来する電車をカメラに収めると、「18時ごろまた戻ってきますがどこがいいでしょう?」と、撮影地や僕の予定を確認すると原稿を仕上げるために慌ただしく帰社していくのだった。
沿線で一緒になった日に夕刊を手にすると、午前中に二人で見ていた光景が、大きく紙面に再現されている事も度々あり、揖斐、谷汲線の取材を続けている僕を記事のひとつとして取り上げてくれたこともあった。
歳も近く、同じ題材に熱心に取り組む真面目な十文字さんは、写真部のカメラマンとして活躍中で、撮影した写真に自分で文章を書き発表を続けている。
一方で、僕は、写真にこんな世界があるとは知らず、成り行きで入った広告写真の世界で、早朝から深夜、食事の時まで『写真の世界で生き抜くとはこういうことだ』と、叩き込まれている最中で、その鬱憤を晴らすかのように、空いた時間を見つけては作品づくりに没頭していた。
この頃、僕にとって写真の仕事とは、照明が決まっていない冷たいホリゾント(※スタジオ用の壁面)に囲まれた、真っ暗でだだっ広いスタジオのようなもので、作品づくりは、その真っ暗なホリゾントのスタジオに、硬いスイッチをパチンと入れて5kwのライトを灯すようなものだったのだ。
暗闇の中、手探りでスイッチを探し5kwのライトを灯すと、何も見えなかった空間を柔らかな光が隅々まで照らしてくれるというものだ。
立場は全く違っていたが不思議なほど気が合うので、夜遅くまで取材先の駅で写真を見せ合い、どのように記録に残していくかを語り合ったりもした。
「明後日、車両が冬支度をします。11時頃からです。撮影に入ると伝えてありますが来れますか?」
時には、僕にしか得られなかったであろう情報を、十文字さんに知らせることもあった。
どうしても残しておきたいと思える事柄が、確実に記録され、確実に発表されることを願って、信頼できる十文字さんに託した。
僕は、岐阜新聞から写真集を出版していただくことが決まっていたが、十文字さんの記事を楽しみにしている反面、ザラッとした紙面の一等地に大きく色付きで刷られた写真を眺めながら、直視できないほど眩い活躍ぶりを羨ましくも感じていた。
もう20年ほど前の話である。
数年後、十文字さんは、所属する部署が変わり現場から遠ざかったが、職場を訪ねると仕事に対する情熱は当時と全く変わらず、カメラを持って駆け回っていた頃の姿が蘇ってくる。
時が経ち持ち場は変わっているが、現在の仕事と同様、写真に対する気持ち、厳しさも、当時と何ら変わっていない。
そして、忙しく飛び回り、次々と仕事をやり遂げている十文字さんを、どこか羨ましく感じる気持ちがあることに気づくのだ。
そんな十文字さんであるから人物の撮影程度ならわけなくこなせるはずだったが、『東京から聞いた話ではっきりした内容は見えないが、早目に日程を抑えておいたほうが良い』と判断して、僕に電話をかけてくれたのだ。
とてもありがたいことである。感謝しなければならない。
各都道府県で各新聞社が同じ企画で記事を作成するらしいとのことだったので、資料を取り寄せてもらうことにして電話を切った。
その電話から数日後、資料に目を通した。