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小浜市〜京都府北部の木造校舎を巡った話(綾部・宮津編)

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旧小浜市立堅海小学校(1991 閉校)

旧小浜市立堅海小学校(1991 閉校)




『残された校舎をどうしていくのか決めていかなければなりません』
『我が町で大掛かりなイベントがありますので合わせて来られたらいかがでしょうか』

時として、ペランとした質感すら持たない画面に浮かぶ文字から強烈な力を感じることがある。
福井県小浜市の知人から届いた2通のメールが、僕に今回の旅を決定させた。

一昨年ごろ、福井県嶺南、京都府北部に廃校後もたくさんの校舎が保存されている事を知った僕は、放っておけばただ朽ちていくだけの校舎を、どのように保存、活用しているのかに興味を持った。

理由はふたつ。
この地区を回れば、廃校後の校舎を有効活用したいと願っている福原分校の若者たちの参考になるはずだと感じたこと。
もう一点は、自分の取材として、地元の方々の郷土に対する気持ちをしっかり見ておきたい、記録に残しておきたいと感じたからだ。

『小浜のあたりでは廃校になった後も校舎が残っていますが』
廃校を熱心に取材し記事にしている記者なら何か知っているかと、小浜市のことを尋ねてみたが、そういった地区が存在していることを知らない様子だった。

今回、2泊3日という短い時間で表面をつるんと触れてき程度で申し訳ない気持ちもあるが、様々な企画に携わる地元の人、市の職員、市議会議員の方々からお話を聞く貴重な機会にもなった。
小浜やその周辺の地域の様子を知っていただくことができればと思い、写真とともに紹介させていただくことにする。

急速に統合が進む小学校

上世屋 宮津市 京都府




2017年度の文部科学省が発表した数字を見ると、2015年度に廃校になった小学校の数は520校になる。
政治家が『子どもを最低3人はつくっていただけるようにと』お願いしたいぐらい危機的な少子化にあることをこの数字をみて感じずにいられない。

そして、知恵を絞って守り、育ててきた伝統や文化、積み上げてきた誇りが、520の地域から消えようとし、それらが消滅寸前の状態になっているかもしれないと感じるのだ。

学校は、生活圏、文化圏、村や町単位で、地域の子供達のためにと始まったものがほとんどである。
寺小屋だったり、地区の人たちが土地を用意して建てた学校も珍しくない。
そういった歴史を踏まえてか、十数年前は『地元の人たちが望むなら子どもが一人になっても学校は開ける。経費が理由で閉じるということはあり得ない』と胸を張っていた気概溢れる先生方の言葉を耳にする機会もあった。
学校は地区そのものであり、将来を約束する希望であることを理解している様子だった。

しかし、最近では『年間いくらいくらかかる』という言葉を、何のためらいもなく口にする様子を目にするようになった。
合理化を当然のように話す先生も優秀なのかもしれないが、お金の話は他の方に任せ、その土地の文化や特徴を尊重し、足りない部分を工夫し、乗り越える知恵を授けてくれたり、多様な価値観(広い心、優しさ)を解いてくれる先生の方が先生らしい気がする。

廃校に踏み切るタイミングも、随分と早まっているのではないだろうか。
都市部に比べて、地域を良くしようと努力している人たちが暮らす土地から順番に必要なものが失われ、それが当然といった風に進んでいるようにも見えて大いに矛盾を感じてしまう。

合理化や設備の整った環境での教育も必要だ。
不便な場所に暮らすことを押し付けたり、苦しい暮らしを守れとは言えないが、合理化、効率化を目的に動いている物事が行き着く先に、本来の豊かさや平和があるのかは疑問でならない。

要は、何を大切にするのか?といった、モノではなく精神の問題なのかもしれない。

きちんと研究がなされているであろうから、人口や収支以外にも、産業、仕事の移り変わり、引きこもり、離職、犯罪の発生率といった社会現象など、数値化できているものは徹底的に検証し発表していただけたら良いと思う。

今、福井県の嶺南にある小浜市では、国富、遠敷(おにゅう)、松永、宮川小学校を美郷(みさと)小学校に統合(現在、廃校後の施設について地域の協議会で協議中)するなど、大規模な統廃合が進んでいる最中であり、以前から廃校になった校舎を抱えている地区でもある。

残された校舎などの施設をどのようにするのか、また、学校がなくなった後の地域づくりにどのように向き合っていくのかを見ておくことは、身近な良いお手本になるように感じた。

無人集落となった上根来出身のKさん、廃校後の学校を活用する活動などに取り組む建築士のHさんに連絡をとると、冒頭のような返信をすぐにいただくことができた。

日程は5/17~19の三日間に決まった。
18日は田烏の棚田にキャンドルを灯すイベントがあり、19日は、小浜から京都を目指す鯖街道のマラソンなど、様々な催しが開催される日でもあった。

京都府北部へ

旧奥上林小学校 綾部市

旧奥上林小学校 綾部市 京都府




初日は、早朝の小浜を通り越し、舞鶴市、綾部市、宮津市などを目指し京都府北部へ。
こちらも、廃校になった校舎がたくさん残っている地域だ。

綾部市には、木造校舎と体育館を渡す木造の建築物『余部鉄橋』で有名な奥上林小学校が残っている。


『余部鉄橋』 旧奥上林小学校 綾部市

『余部鉄橋』 旧奥上林小学校 綾部市 京都府




奥上林小学校は、向かって左側に一段高くなった体育館、その体育館を挟んでさらに左に、とても幼稚園とは思えない木造二階建ての”校舎”が建っている。
どちらも何かしら利用されているような雰囲気がある。

校舎の正面には、県道1号線を挟んで広い校庭がある。
この校庭には、校舎脇の階段を降り、県道をくぐって渡る構造になっている。
平地がたくさんあるようにも思えるが、高台に校舎を作ったので、全体がこのような多層階になっているのである。

校舎を建てた頃は、田畑が重要だったのかもしれないし、災害などのことも含めてこのような形になったのかもしれない。
以前、学校の場所を決める時に、『ここなら絶対に水が来ない』という理由で地元の人たちがここに建てたという話を聞いことがあることを思い出した。


奥上林小学校

木造の美しい構造物『余部鉄橋』 綾部市 京都府:有名なこの渡り廊下は、最初からあったものではないようだ。この廊下を使っていた卒業生達の話を聞いて写真をここで撮ってみたい。




朝、7時にはカメラを構え始めていたけれど、県道を走る車の音はそれほど聞こえてこない。
路線バスが人気のない校舎の前にとまり、ドアを開閉するブザーの音だけ残し走っていった。

一段高くなった場所にある体育館と幼稚園を見に行く。
改めて正対してみると、幼稚園というには違和感を覚えるほど立派な二階建ての建物だった。

体育館のある高台から渡り廊下を眺めていると、白い軽自動車が校舎の前に入ってきた。
『おはようございます!!』『おはようございます』
高い所から失礼かと思ったが、車から降りてきた男性に、ありったけの大声を出して叫ぶように挨拶をした。
まさか、この時間帯のここに人がいるとは思っていなかったのか、男性はキョロキョロと辺りを見回している。
『おはようございます!』
さらに叫び続けると、ようやくこちらに気づいてくれた。

『すいません!ちょっと写真を撮りにきたのですが』
男性は、耳に手を当てて、僕が何を話しているのか聞こうとしている。

『耳が遠いので、ちょっと降りてきて、下で話をしてもらえませんか?』

僕は、渡り廊下を横切り、斜面の小径を急ぎ足でおじさんの元へ。

おじさんは、昭和16年生まれ。
この土地に暮らし、定期的に学校の水道の管理をしているそうだ。

まず、この校舎最大の特徴である渡り廊下について聞いてみると、おじさんが学校にいた頃は存在していなかったようだ。
もともとここは、小学校と中学校で、目の前にいるおじさんは中学生としてこの校舎で1年と少ししか学んでいないという。
中学校は上林中学校東校舎、西校舎(別々の場所に1校ずつあった)と別れていて、おじさんが中学1年生の頃はちょうど校舎が燃えてしまって建て替えの最中であった。
建て替えが終わりのちに小学校になる校舎に移ってきたが、3年生の途中から中学校は統合され小学校だけになったそうだ。

おじさんが中学を卒業した後のことなので、幼稚園については、はっきりとはわからない。

上林地区の昔の様子を聞くと
『農業と林業のこれといった産業も特徴のない本当に普通の暮らしだったかなぁ。高校になったら綾部の方に出て、冬は雪の影響で通学も大変になるから3年生の頃には向こうに寄宿して高校を出ましたなぁ』


旧奥上林小学校 こちらはのちに幼稚園(保育園)になった校舎と体育館 校庭には小さな幼児向けの遊具が残っている。こちらで年に数回催し事が行われているようだ




『みんな綾部、舞鶴に仕事に出て、農業は機械化もなかなか進まず、大規模でもなく効率化がなかなか進まない中、外に仕事に出て、田畑を荒らさないために外で稼いできたお金を使っているようなものだから、順々に人が減っていってしまったなぁ。
現在は、一つの集落の半分は空き家で、暮らしているのも私のうような老人ばかりで、あと10年もすればここは無人集落になるかもしれない・・・』

おじさんは、校舎を眺めながら上林地区について話してくれた。

校舎については、現在何人か借りて出入りしている人があるが、徐々に来る回数が減ってきているように感じているようだ。
それとは別に、年に2~3回ほど催し事に使用されている。

『取り壊しも費用がかかるし、誰かが借りてくれたら良いのですけれど。人が来ないと修繕も行き届かないし、このままだと自然に壊れていくだけで、いつか限界がきたら取り壊されるようになるのかなぁ』

ちょうど、ここへ来る前に見ておきたかった上根来小学校を思い出した。
無人集落になった上根来にあった木造平屋の校舎は、自然を活かした活動を目指していたが、瓦屋根に致命的なダメージを受け2019年の春に取り壊されてしまった。

『作家さんなどが校舎に暮らすというのが流行った時期があるから、そのようになるといいのかもしれない』と言い、僕に向かって、借りる話をするなら、まずはこの道を進んだ上林の支所を訪ねるといいと笑って教えてくれた。

丹後半島へ

この辺りの海岸は、大小無数の海に突き出た半島があり、それぞれ海に面した地域で生活が営まれている。
三島由紀夫の金閣寺に登場する、成生岬もそのような場所にある。

小さな漁港に面した僅かな平地に家が密集し、車が通れる道は港に面した一本の道路のみ。
あとは、家の間を人が一人歩ける程度の道が山に向かって3本ほど伸びているだけであった。

このような環境での暮らしは、市街地で暮らす僕の価値観など全く通用しそうもなく、どのような歴史や暮らしの知恵があるのかなど興味は尽きない。

当然、半島にも学校がいくつかあり、廃校になった学校が残されている。

宮津市の県道605号を北上して行くと、県道と海に挟まれるように鉄筋の旧栗田小学校田井分校が残っていた。
海のはるか向こう側に見えるのは丹後半島。
左手前方あたりが天橋立になる。


旧栗田小学校田井分校 宮津市 京都府




旧栗田小学校田井分校

海が見える窓 体育館への廊下 旧栗田小学校田井分校 宮津市 京都府




県道に面した校庭の広さはドッヂボールができるほどで、地面に半分埋まったカラフルなタイヤは草に埋もれ、備え付けられていたブランコは錆ついていた。

校庭の奥にある、ベージュ色の鉄筋平屋建て校舎は、向かって左が教室、向かって右側にコンパクトな体育館を持っている。
窓からは、日本海側特有の澄み切った青い海が見える。
校舎のすぐ裏手には、真っ白な砂浜が広がっていた。


旧養老小学校田原分校 宮津市 京都府

旧養老小学校田原分校 宮津市 京都府




海岸線の道路をそのまま丹後半島に車を走らせる。
観光地の雰囲気が溢れる天橋立付近を超え、さらに北上し県道75号線を山間部目指して走って行くと、棚田が美しい上世屋地区に到着する。
高台には、廃校になった世屋小学校世屋上分校跡地が藤織り伝承交流館に生まれ変わっているようだ。
ちょうどお散歩をしている人に尋ねたら、『ここは元中学校で、下っていった下世屋に小学校の校舎が残っている』と知らされて下世屋地区に向かう。

集落を通り過ぎたあたりにある階段を上がると、公民館があり、そのすぐ脇に世屋小学校と思われる校舎が残っていた。

公民館はしまっていたので、詳細を尋ねることができなかったが、僕が高台で最初にみた校舎跡は、中学校なのか、さらに車を走らせれば分校跡があったのか、はっきり確認することはできなかった。

この辺りの半島を走る道路は、海岸線をぐるりと周るルートから山間部に向かう道路がいくつも分岐しそれぞれの集落に向かっているが、山間部(内陸部)にある集落と集落を結ぶ道がじゅうぶんに整備されておらず、一旦登ってきた道路を引き返し海岸線の道路を走り、また登って行くということを繰り返さなければならない。
世屋からは、珍しく山間部を縦断する県道621号線を走り波見地区を目指す。
廃校後しばらくNPO団体の活動の場として利用されていた養老小学校波見分校へ到着したが、しばらく使われていない様子で廃墟のようになっていた。

そこから宮津市をさらに北上し、旧養老小学校田原分校へ辿り着いた頃にはもう夕暮れ時。
大きなホタルのオブジェ、少し離れて掲げられている地区の看板には、まだ養老小学校田原分校と記載があるのでここは休校扱いかもしれない。
体育館と、集会所程度のこじんまりとした木造校舎が残っていた。

近くのおじいさんに話を聞くと、この地区には全く子供がいないとのこと。
分校は、地元で収穫したものを加工する作業場として使われているようだ。

『だいたい午前中、年寄りが集まって週に3~4回は使っていますなぁ』
『え?そんなに使っているんですか??』
『そう。ここで作ったものを売ってお金になる。仕事になるからね』

そういっておじいさんは笑った。
派手さや豪華さはなくても、そのような活動が自然な形で楽しみになるということは羨ましい気がする。

そろそろホタルの時期になり、この辺りはそれを見に来る観光客で相当賑わうらしい。

『何かいい話があったら、持ってきてくれんかな。ここには若い者がいないから』

分校を見渡せそうな高台を見つけ、そこから日没直前の写真を撮って集落を降りた。

だいぶ端折りましたが、京都北部だけでこのボリュームになってしまいましたのでこのへんで。
次回は、小浜へ向かいます。



Author: masaki

駒田匡紀(こまだ まさき) 1971.6.13 フリーカメラマンです  撮影や取材など、お問い合わせは、コンタクトフォーム、メールをご利用いただけます。 スタジオについてはPhotoStudioをご覧下さい

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